tera-sanのブログ

人に伝わりにくい多発性硬化症患者の想いや苦労

自分は4歳の時に急性熱性皮膚粘膜リンパ腺症候群(川崎病)になりました。この病気が多発性硬化症のトリガーとなったのではないかと言われています。医師からはあとは本人の生命力と言われたそうです。その後、中学生の時に全身脱力で入院しましたが原因不明のままで回復しました。
20代後半で左半身の麻痺と視野欠損で入退院を繰り返し。多発性硬化症の診断を受け現在に至ります。

再発がやや減少の寛解期 1 (回想録)

社会福祉協議会に転職して。身体的労働はやや減ったものの、当時の社会福祉協議会は半官半民組織であり、福祉活動専門員として配置されました。現場のことは解るものの行政書類作成は全くの素人であり、一枚の書類を作成するだけで、役所と社会福祉協議会の間を何回も行ききし、一回ごとに一か所のみ指摘され、当初はそれだけで一日が終わることもありました。その時は書類全体のチェックを一度にしてくれればいいのにと思いましたが、そのおかげで行政の公文書の作成方法を覚えることができたので、結果的に良かったと思います。
就職後、半月で町の社会福祉大会の企画運営をするように言われ、役所や関係福祉団体、民生委員等に案内文章を発送するにあたり、公文書作成の知識が役立ちました。次に社会福祉大会の司会進行をするように言われ、500名くらいの各種福祉団体等の代表者の前で入って1か月半しか経っていない自分が司会進行なんてと思いましたが、ここで多発性硬化症で苦しんだことからみれば、「やればできる」「今を生きる」という開き直りから無事に社会福祉大会ば終了しました。後で解ったことですが、今後の国庫事業の担当をさせれるかどうかの試験だったそうです。
ということで職名が「福祉活動専門員」から「地域福祉活動コーディネーター」に変わり
5年間の国庫事業の担当になりました。職名の通り、地域福祉活動の調整が仕事ですが
未知の領域で「やればできる」「今を生きる」の精神で頑張りました。
当時の社会福祉協議会はほとんど民生委員活動のサポート機能しかなく、どうやって地域福祉を進めるかの大きな壁にぶち当たりました。県下の地域福祉が進んでいる社会福祉協議会にいろいろと問合せしましたが相手にもされず悔しい思いをしたことを覚えています。でも
「やればできる」「今を生きる」の精神と地域福祉に関する学生時代に得た知識をもとに、
まずは全民生委員宅を訪問して、福祉に関する問題をお聞きしニーズ調査をしました。そんな中、地域にある知的障害者の施設で苑祭があるので民生委員の方々は手伝いにいくという情報を耳にし、その施設に学生ボランティアの受け入れを依頼し、何とか了解をとり近隣の学校を訪問しボランティアの募集を依頼しました。当時は施設ボランティアなんてほとんどなく隔離された状態でした。もともと知的障害者施設で働いていたことを知っている仲のよい先輩方からも、いろいろな意見がありましたが、施設はもっと地域に開かれるべきだと思っていることを伝えました。後日施設側からも好印象の評価を受け、その後は毎年ボランティア活動ができるようになりました。私事になりますが亡き父が高校教師であり、ボランティア活動の部活の顧問をしていたので、父にも依頼し学生とともに参加してもらいました。
父は帰宅後、母親に嬉しそうに話していたそうですが、その5日後、くも膜下出血で倒れ亡くなりました。福祉が好きだった父に、最後の親孝行ができたと思います。