tera-sanのブログ

人に伝わりにくい多発性硬化症患者の想いや苦労

自分は4歳の時に急性熱性皮膚粘膜リンパ腺症候群(川崎病)になりました。この病気が多発性硬化症のトリガーとなったのではないかと言われています。医師からはあとは本人の生命力と言われたそうです。その後、中学生の時に全身脱力で入院しましたが原因不明のままで回復しました。
20代後半で左半身の麻痺と視野欠損で入退院を繰り返し。多発性硬化症の診断を受け現在に至ります。
その後、嚥下障害となり胃瘻を増設、排泄障害や高次脳機能障害も併発して、歩行や体幹にも障害が出ています。一日一日を生きるように心がけています。

再発がやや増加の寛解期 4 (回想録)

多発性硬化症とともに

社会福祉施設の事務長を引き受けたものの、頼みにきた方の話の節々に問題点があることにきづいていたのでまずは見学からという条件で見学に行きました。そこで法人の理事長にお会いしましたが、福祉業界ではそれなりに名の知れた方で「まずは見学させてください」と話し見学に行ったのですが、当時の施設長が勝手に「今度来られる新しい事務長です」と利用者さんに紹介してしまい深みにはまってしまいました。社会福祉協議会で仕事をしていたので、どんな職員がどう働いているかみれば解ります。あとになって、理事長にはめられたと話すと「私だって一緒だ」とのことでした。先が思いやられるスタートでした。
当初の予定は、午前8時~午後5時までの定時出勤、定時退社でとの話し合いでしたが、法人で年間1千万円以上の赤字があり、高齢者施設、障害者施設ともに大赤字でした。そして働いている職員も畑違いの職場で働いていたものばかりで、失業対策でヘルパー講座を受講して働いている職員が多く、福祉に対する理解が足りない職員が大半でした。最初の1か月間は職員の観察に費やしました。感じたのは、自分たちが面倒をみてやっているというおかしな考え方でした。利用者あっての自分たちの仕事が成り立っているということの理解が全くありませんでした。福祉の大学や短大を卒業して、福祉の心を持っている若い職員がしたい福祉を出来ない状態でした。まずは専門的な勉強をしてきた若い職員の声を聞き、どこが問題かを考え、どんな施設で働きたいのかを聞きました。もうみんな辞めたいと言い出し、あとしばらく自分にまかせてほしいと話し、取りあえず了解を得ました。決め手だったのは、若い職員の教科書に自分が出ていたということでした。本人は知らないところで。
事務長として座っている訳にもいかず、翌日からはジャージで現場に入り、いちから現場の大改革でした。駄目なことは駄目、いいことはどんどん取り組んでいけるように現場をサポートしました。そんなある日、ケアマネから抗議があり利用者やご家族への対応が悪すぎるので、ケース紹介はできないとのこと。翌日からは生活相談員も兼任して、ケアマネさんや利用者やご家族との関係も修復しました。多発性硬化症になり、学んできたことが役立ちました。また入浴介助で利用者さんに尻もちをつかせてしまい、歩けなくしてしまったご家族には誠意をもって対応し続けました。その方の送迎は何年も自分が対応し続けました。最後は自分の施設で看取ってほしいということになり、主治医にも了解していただき、看取りをしました。
また事務長になり、初めての監査の時のことです。監査室に入って監査が始まる前に突然監査課からお𠮟りを受けました。業務改善命令が出ているのに改善しないなら指定を取り消すとのこと。自分としては鳩に豆鉄砲状態でした。前施設長が放置していたのです。すぐに
改善することを伝え、1週間で全ての書類を改善しました。これも多発性硬化症になって社会福祉協議会で身につけた事務が役立ちました。多発性硬化症に感謝・感謝
施設の運営に関しては2年目に施設長となり、適材適所の人材とし、必要か職員数に絞り込んだことから、施設の雰囲気も明るくなり、800万円ほどの黒字となりました。
自分が多発性硬化症とともに歩めたのは、利用者さんやそのご家族、職員、ケアマネのおかげだと思っています。