tera-sanのブログ

人に伝わりにくい多発性硬化症患者の想いや苦労

自分は4歳の時に急性熱性皮膚粘膜リンパ腺症候群(川崎病)になりました。この病気が多発性硬化症のトリガーとなったのではないかと言われています。医師からはあとは本人の生命力と言われたそうです。その後、中学生の時に全身脱力で入院しましたが原因不明のままで回復しました。
20代後半で左半身の麻痺と視野欠損で入退院を繰り返し。多発性硬化症の診断を受け現在に至ります。

再発がやや減少の寛解期 3 (回想録)

ふれあいの町づくり事業とは、大きく3本の柱に分かれています。総合相談事業、地域福祉活動事業、福祉施設との連携活動の3本柱です。厳密には事業自体は介護保険制度導入後、
すでに打ち切りとなっていますが。総合相談事業は弁護士による法律相談も含まれており年間数千件あり、専門相談に振り替え調整を図り、それを吸い上げ適正な相談が行われているか再度調整を図ろ事業。地域福祉活動に関しては、各地域の役員会に出席し地域の見守り体制を確立していく事業。そして地域ごとに地区社会福祉協議会を立ち上げ、独自の活動をしてもらうこと、福祉施設との連携に関しては専門知識を施設に提供してもらうことでした。
日中は通常業務をこなして、夜は各地域の会合に参加して話し合いに参加して地域福祉活動の推進に精力を尽くしました。この夜の会合が悪かったのか、会議中に右目の視野がみるみる内にせばまり、見えなくなり翌日病院へ。視神経炎の再発でした。ステロイドの点滴をして無理しないようにだましだまし仕事をしました。ある政党の政治的圧力があったりしましたが、そこは多発性硬化症とともにの精神により乗り切り、約5年目に月刊福祉の紙面に特集記事として取り上げられるようになりました。いろいろな人の支持・協力により達成できたと思います。なんとか軌道にのせることができたので、多発性硬化症の再発もあり退職することにしました。「やればできる」「今を生きる」の精神でやり遂げれました。
この頃から、多発性硬化症になったことが、むしろ人の痛みを感じられるようになつてプラスに働いていました。多発性硬化症とともに生きていこうと思い出しました。
それから約3年間は福祉を離れ、印刷屋の営業として働きながら、再発したらステロイド点滴をしてもらい、だましだまし仕事をしていました。
視神経炎で入院していた際に、昔の知り合いが、福祉施設の事務長を引き受けてほしいと病院に毎日のように通ってこられ、もう福祉はしたくないと断り続けていましたが、友人の説得により、また福祉業界に逆もどりしました。