tera-sanのブログ

人に伝わりにくい多発性硬化症患者の想いや苦労

自分は4歳の時に急性熱性皮膚粘膜リンパ腺症候群(川崎病)になりました。この病気が多発性硬化症のトリガーとなったのではないかと言われています。医師からはあとは本人の生命力と言われたそうです。その後、中学生の時に全身脱力で入院しましたが原因不明のままで回復しました。
20代後半で左半身の麻痺と視野欠損で入退院を繰り返し。多発性硬化症の診断を受け現在に至ります。

再発がやや減少の寛解期 2 (回想録)

この頃は再発がやや減少しており比較的仕事に打ち込めました。国庫事業の「ふれあいの町事業」の担当者としてどうすれば事業展開をできるかを考えるのに国庫補助金をどう適切に使うことがよいか悩みました。国庫補助金は税金なので無駄に使う訳にはいかないと思い、いろいろと情報収集をしました。そんな中、月刊福祉という書籍に「ふれあいの町事業」の成功例として山梨県の富士吉田市社会福祉協議会が取り上げられており、これが目指す社会福祉協議会だと思い、居ても立っても居られなく、すぐに電話して研修に行きたいと伝えましたが、半年先まで予定が入っていると言われ、それでもすぐにお願いしたいと事務局長に直談判して、「そこまで言うなら、いつ来れる」と言われ、「今すぐにでも」と答えると特例として受け入れてもらえることになりました。その日の午後よりすぐに山梨県に向かいました。実際、富士吉田市社会福祉協議会の事務局長と話した際に、月刊福祉の記事に感銘を受けたことを伝え、5年後には自分の社会福祉協議会も月刊福祉に取り上げられるほどにしたいと熱意のほどを伝えました。社会福祉協議会の活動全般と各種福祉サービス、あとは地域で行われている会合にも参加させてもらいました。自分にとっては社会福祉協議会としての恩師となりました。いつまで身体が持つか解りませんでしたが「やればできる」「今を生きる」の精神で多発性硬化症とともに歩んでいました。多発性硬化症により身体的に障害が出たことが福祉の仕事の面で当事者としてプラスに働きました。