tera-sanのブログ

人に伝わりにくい多発性硬化症患者の想いや苦労

自分は4歳の時に急性熱性皮膚粘膜リンパ腺症候群(川崎病)になりました。この病気が多発性硬化症のトリガーとなったのではないかと言われています。医師からはあとは本人の生命力と言われたそうです。その後、中学生の時に全身脱力で入院しましたが原因不明のままで回復しました。
20代後半で左半身の麻痺と視野欠損で入退院を繰り返し。多発性硬化症の診断を受け現在に至ります。

胃婁について思うこと

自分は多発性硬化症の二次進行で、嚥下障害になりました。今思うとよく唾液でむせることはありましたが、まさか嚥下障害を起こしているとは思いませんでした。そのうち食べ物を飲み込んだ際に、喉に詰まらせることが多くなり窒息しそうになることが増え、総合病院で胃カメラ等いろいろと検査しましたが異常なしと診断され半年ほど経って、やはりおかしいと思い、大学病院に紹介状を書いてもらい受診しました。多発性硬化症の専門科受診ということで神経内科を受診し、経鼻カメラによる嚥下検査や造影剤を使ってレントゲンで飲み込みを確認した結果、喉の反射が全くなく口から飲食すると誤嚥するということとなり、すぐに飲食禁止となりましたが、時すでに遅しで、病院で誤嚥性肺炎を起こし、経鼻栄養となりました。食べれない、飲めない、鼻が痛い(笑)、酸素吸入、吸痰、あっという間に重症患者。思いもよらないこととなり、本人が一番驚きました。肺炎は抗生剤で収まりましたが、飲食はできない状態となり、もしかしてずっと鼻から栄養と水分?鼻の管(カテーテル)はこのまま?。そうだとしたら仕事もできず、外出もできない、鼻がずっと痛い(笑)・・・
福祉の仕事に携わっていたのが良かったのかどうか解りませんが、経鼻栄養の他、中心静脈栄養、後は胃婁の方法しかないのはすぐに解りました。何日か悩みましたが、今と違って働くためにはどうすればいいかだけを考えて、主治医に胃婁にしてほしいと自分から伝えました。そして胃婁を増設しました。仕事がら胃婁の管理はすべて自分でやっています。胃婁にしてからもう3年経ちました。そして今も生きていられますが、自分の選択はこれで正しかったのかと悩みます。食べれない、飲めないで、辛いのは確かです。最近は胃婁はよくないと言われ、障害児のための胃婁が本来の意味とも言われています。寝たきりでないだけでもいいのではないかと思いつつも悩み続けています。生きるということはなかなか大変なことですね。生きたくても生きられない病気の人には贅沢な悩みなんだと思います。
病院では「若くて元気な胃婁さん(笑)」と呼ばれています。その通りなんですけどね。