tera-sanのブログ

人に伝わりにくい多発性硬化症患者の想いや苦労

自分は4歳の時に急性熱性皮膚粘膜リンパ腺症候群(川崎病)になりました。この病気が多発性硬化症のトリガーとなったのではないかと言われています。医師からはあとは本人の生命力と言われたそうです。その後、中学生の時に全身脱力で入院しましたが原因不明のままで回復しました。
20代後半で左半身の麻痺と視野欠損で入退院を繰り返し。多発性硬化症の診断を受け現在に至ります。

多発性硬化症との出会いから診断まで (回想録)

自分は4歳の時に急性熱性皮膚粘膜リンパ腺症候群(川崎病)になりました。この病気は罹患する急性発熱疾患であり、全身の中型血管の炎症を主体とし、一部に冠動脈の拡張や瘤を合併する事が特徴です。現時点では発症の原因は不明です。又、冠動脈を中心に合併症が起こる機序も解明されていません。5日以上続く高熱が続き、手足の硬性浮腫、膜様落屑、皮膚の不定型発疹、口唇口腔咽頭粘膜のびまん性発赤、有痛性非化膿性頸部リンパ節腫脹等の症状により、医師からは「出来ることは全てやったので、後は本人の生命力だけです」と宣告されたそうです。何とか一命はとりとめましたが、歩行困難となり、口の中全体が口内炎となり、痛くて食べれなくなりました。あの時、痛くてよく泣いていたのとおぶられていたことだけは鮮明に覚えています。
その後、中学生の時に全身脱力で入院しましたが原因不明のままで回復しました。
とにかく瞼をあけることもできず、全身に力が入らず起き上がれませんでした。しかし親には伝わらず、ただ怠けているように思われました。本当に辛かったのを覚えています。
その後は普通に生活を送ることができていましたが、20代後半で左半身の麻痺と視野欠損で入退院を繰り返し。多発性硬化症の診断を受けました。この当時は多発性硬化症はいまほど知られていなく、医師からは「明日どうなるか解らない」と告げられ、不安で眠るのが恐かったです。そのため情緒不安定になりましたが、看護士達には伝わらず、現在であれば訴えられてもおかしくない嫌がらせを沢山受けました。福祉の観点からしてもあり得ない酷さで
病棟の看護師長に直接話し、自ら退院しました。その後は神経内科病棟ではなく脳神経外科の病棟に入院させてもらい、入退院の繰り返しでステロイドパルス療法を受けていました。
勿論いろいろな病院をまわり診察を受けてみましたが、どこに行っても結果は同じでした。
現在ならある程度のことは解ってきていますが、今から20年以上前は、全く周りの理解も得られず辛い日々でした。