tera-sanのブログ

人に伝わりにくい多発性硬化症患者の想いや苦労

自分は4歳の時に急性熱性皮膚粘膜リンパ腺症候群(川崎病)になりました。この病気が多発性硬化症のトリガーとなったのではないかと言われています。医師からはあとは本人の生命力と言われたそうです。その後、中学生の時に全身脱力で入院しましたが原因不明のままで回復しました。
20代後半で左半身の麻痺と視野欠損で入退院を繰り返し。多発性硬化症の診断を受け現在に至ります。

多発性硬化症との闘いからの共存

20代後半から30代前半までは再発寛解を繰り返し、入退院の繰り返しでステロイドの経口薬使用で抑え、酷くなると入院してステロイドパルス療法での対応で仕事をしていました。障害者施設では生活支援員として働いていましたが、作業や介助の重労働に身体がついていかずに自主退職しました。この際に、通う総合病院と主治医の変更をしましたが、すぐに入院して、ステロイドの経口を中止しました。身体がステロイドづけになっており副作用が酷く、入院して中止しましたが、ステロイドの離脱症状が酷く、ステロイドの長期大量使用がいかに身体の負担になつているか実感しました。入院中は食べ物の匂いがしただけで嘔吐しかかるほどで、約2週間でやっと治まりました。この主治医との出会いが闘いから共存への変換点となりました。多発性硬化症の症状が確実に解るようになりました。
次に生活相談員として特別養護老人ホームに就職しましたが、生活相談員としての仕事より介護の割合が高く体力的に無理があり、自主退職して30代前半で事務的な福祉としての社会福祉協議会に転職しました。この頃になると再発の回数も減り始め、仕事に打ち込むことができました。この頃の症状はリハビリにより左半身の軽い麻痺が残っていただけで普通に歩くことも何とかでき、周囲からみても多発性硬化症とは解りづらい状態でした。この頃から「多発性硬化症とともに」 の生活が始まりました。