tera-sanのブログ

人に伝わりにくい多発性硬化症患者の想いや苦労

自分は4歳の時に急性熱性皮膚粘膜リンパ腺症候群(川崎病)になりました。この病気が多発性硬化症のトリガーとなったのではないかと言われています。医師からはあとは本人の生命力と言われたそうです。その後、中学生の時に全身脱力で入院しましたが原因不明のままで回復しました。
20代後半で左半身の麻痺と視野欠損で入退院を繰り返し。多発性硬化症の診断を受け現在に至ります。

多発性硬化症と診断され、悩みや苦しみのある方へ



自分は多発性硬化症の診断を受けたのが20代後半です。今月58歳となります。当初、医師からは「現状原因不明の病気で確立した治療法もなく、明日どうなるかも解らない」と告げられました。その当時は今ほど多発性硬化症は知られておらず、おそらく医師も看護士もテキスト上のことしか解らない状態だったと思います。自分なりにいろいろと調べましたがまだ情報も少なく、不安な毎日を過ごしていました。夜になると寝るのが怖くなかなか眠れなくなりました。結果、ケース会議にかけられたり、してもないことをしたといい濡れ衣をきせられたりしました。確かに情緒不安定であったのは否定しません。しかしながら、いいこと
悪いことの分別はつきます。今の時代なら、病院側に対して意見を言える、苦情を言える状態ですが、当時は医師と看護士が偉い状態でした。我慢できず自ら退院したこともあります。その当時の治療法としてステロイドパルス療法がメインであり、他に治療法が確立していない状態でしたが、自分にはステロイドが合わず、動悸が酷く頻脈になりましたが伝えても、「そんなことはない」で済まされてしまいました。結局、身体がステロイドに慣れるまで苦しい思いを続けました。その後も再発寛解を繰り返し、ステロイドを多用した結果、途中から病気の症状かステロイドの副作用か解らない状態になり、思い切って転院しました。その際は紹介状なしです。お金はかかりましたが、自分の場合は結果オーライでした。まずはステロイドを身体から抜くために入院。ステロイドの離脱症状には凄く苦しみました。食事の匂いを嗅ぐだけで、凄まじい吐き気がして病院の敷地内の休憩所へ。食べ物も寄せ付けなくなり、唯一飲めるのはコーヒーだけでした。体重も一気に減り退院しましたが、今となって考えてみると、そのおかげで現在生きていられるのだと思います。その後、視神経炎で
何度か入院しましたが、その時だけ、バルスを1クール受けました、その後は神経内科医の主治医が開院されたので、そちらに替えて継続して診察を受けていました。どうしょうもない時だけ、ステロイドの少量点滴をしてもらいながら、10年間以上入院はしませんでした。
その後、嚥下状態が悪くなりも唾でむせたり、喉に食べ物が引っ掛かったりし、総合病院でみてもらったのですが異状はないと言われ、その後も肺炎になったりしたので大学付属病院を受診して、嚥下障害がやっと解り、よく今まで窒息しなかったねということになり、解ったその日から鼻腔栄養となり、このままでは仕事もできないので胃婁を選択しました。そして現在に至ります。生きることがこんなに辛いと思ったことは多々あります。多発性硬化症で悩んでいる皆さん、いろいろと大変なこと、辛いこと、周りの理解等、多々あると思いますが一歩ずつでもいいので前進しましょう。