tera-sanのブログ

人に伝わりにくい多発性硬化症患者の想いや苦労

自分は4歳の時に急性熱性皮膚粘膜リンパ腺症候群(川崎病)になりました。この病気が多発性硬化症のトリガーとなったのではないかと言われています。医師からはあとは本人の生命力と言われたそうです。その後、中学生の時に全身脱力で入院しましたが原因不明のままで回復しました。
20代後半で左半身の麻痺と視野欠損で入退院を繰り返し。多発性硬化症の診断を受け現在に至ります。

父親のことを思い出す

自分の父親は高校の教師をしていました。自分が福祉の仕事に就くきっかけを作ったのは父親です。父親は生徒指導部であり、不良達から鬼とまで言われていた時期もありました。しかし退学になる生徒に、退学するかボランティア活動をしながらもう一度頑張って卒業するかの選択肢を与え、最寄りの駅の清掃活動や通学路の清掃活動、24時間テレビの募金活動、
孤児院の里親を兼ねた自宅での合宿等の活動をしていました。そういう関係から小学生の頃から一緒に連れて回られていました。そんな中、自分も若気の至りで中学から高校にかけて
俗にいう不良と呼ばれる人種になり、いろいろとありました(笑)で、退学して働くことまで考えていた頃、高校3年の夏休みに自分を見つめ直すために禅寺に半ば強制的に行かせられました(笑)(笑) 1日3回、座禅を組んで自分を見つめ直すと同時に修行僧のような生活をさせられました。今はいい思い出ですが。そこで導き出されたのが福祉の道です。それからは寝る間も惜しんで勉強です。なんせ中学3年の頃から、ろくに勉強もしていなかったので。なんとか福祉系の大学に進学でき、福祉の勉強と社会勉強が出来ました(笑)
卒業後、障害者施設や社会福祉協議会、高齢者施設等で働いてきました。
自分がとある町の社会福祉協議会で働くことになった際、入ってすぐに「ふれあいのまちづくり事業」という国庫事業の担当になりました。今でこそ障害者の方への対応や障害者が住みやすい地域となっていますが、当時はまだまだ人里離れた場所に施設がありました。そこでボランティア活動を啓発するために運動会でのボランティア活動を企画して施設に提案しました。いろいろと風あたりがありましたが、無事に終えることができました。その際に、父親にボランティアとして高校生の派遣を依頼しました。これが親子でする最初で最後の
福祉活動となりました。仕事帰りに実家に寄り、活動のお礼を伝えましたが、その時の父親の照れ笑した顔は忘れません。そして一言、「大事にしなさい」と言われたのですが、?
でした。それが父親との最後の会話でした。のちに母親から聞いたのですが、その日の夜に
父親が嬉しそうに、「あいつは俺を越えた」と喜んでいたそうです。それから1週間後に、くも膜下出血で倒れ、他界しました。
父親の言った最後の一言、「大事にしなさい」の意味は日がたつごとに解り始めました。


「大事にしなさい」
1.自分のこと
2.家族のこと
3.巡り合った人のこと


※働いていた頃の自分は、俗にいう「福祉バカ」で、1と2をないがしろにしてきたので
 今になって実行していますが、息子は1~3までをきちんと実行しています。