tera-sanのブログ

人に伝わりにくい多発性硬化症患者の想いや苦労

自分は4歳の時に急性熱性皮膚粘膜リンパ腺症候群(川崎病)になりました。この病気が多発性硬化症のトリガーとなったのではないかと言われています。医師からはあとは本人の生命力と言われたそうです。その後、中学生の時に全身脱力で入院しましたが原因不明のままで回復しました。
20代後半で左半身の麻痺と視野欠損で入退院を繰り返し。多発性硬化症の診断を受け現在に至ります。

多発性硬化症と視神経脊髄炎の本音(弱音)について

今回の入院先送りもしくは中止は精神的にダメージがきつかったです。
2000年以降の多発性硬化症の診断を受けた方々は治療薬の発展により、再発寛解型を繰り返しても2次進行型になるリスクはかなり下がるとのことです。1次進行型の場合はどちらも少数で同じくらいだそうです。2000年以前からの多発性硬化症の方の2次進行型のリスクは高くなります。
自分も数年前の嚥下障害から始まり、排泄障害も強くなりました。そして今の心の中は毎日が自分との葛藤です。胃婁を増設して生きることは選択しましたが、口からは何も摂取できない苦しさがあります。匂いや食べたいという意欲があるのにとちらが幸せか悩むことは毎日です。水分補給も全て人のいないところで胃婁から隠れてしなければいけません。入院病棟では元気な胃婁さんと呼ばれ、新人看護士に胃婁の扱い方をレクチャーしたりしていますが、胃婁にしたことについては本当に悩んでいます。鼻腔栄養は管が見えるので胃婁を選んだのですが。排泄障害についても同様でいつでるか解らないので、紙パンツを使用せざるを得ません。嚥下と排泄障害は40代末から現れた症状です。
さすがに、発症から二十数年、ここまでQOLを下げて生きていることの価値についても悩むことは多々あります。解っているのに受け入れたくない現実。
それらを払しょくするために始めたブログですが、この生活がいつまで続けられるか、病院の主治医は、多発性硬化症の専門医で、段々弱りだなと言われています。
それに負けたくはないという思いで書き続けているブログですが、時には負けそうにもなります。病気には負けたくない、でも症状が悪化すると負けそうになります。